法然上人とは

仏教がわが国に伝来して以来、仏教は常に救いの対象は、天皇や皇室、公家や貴族など社会の上層部の人たちでした。身分の高い人々や富める人たちは、地獄から逃れるために金を惜しまず、寄進しあるいは豪華な寺や塔を建立し、神社仏閣に詣で、華やかな法会を催し、たくさんのお布施をして、死後は浄土に迎えられて仏になることをひたすら願い善行に励みました。しかしほとんどの民衆はその日を暮すのが精一杯で、天災や、凶作や、疫病、大飢饉に苦しみ、仏教とは無縁の状態に置かれていました
そんな時代に貴族仏教を庶民仏教にしたのが法然上人でした

法然上人絵像 上宮寺蔵

法然上人(1133~1212年)は、平安時代の末期の長承2年(1133年)、美作国(みまさかのくに)久米南条(くめなんじょう)稲岡庄(現在の岡山県)に、この地方を監督する押領使だった父・漆間時国(うるまときくに)と母・秦氏(はたうじ)のひとり児として誕生し勢至丸(せいしまる)と名付けられます
9歳のとき、漆間家は、稲岡庄の預所(年貢徴集や荘地の管理などにあたった職)だった明石源内武者定明(むしゃさだあきら)の夜襲を受け、父の時国が43歳の生涯を終えます
父時国は、臨終に際し法然上人に仇(かたき)として定明を追うことをいましめ「仇を恨んではならない。出家して、敵も味方も、ともどもに救われる道を求めよ」と遺言します

<以下文章は東本願寺HP 正信偈の教え より抜粋しました>
法然上人は十三歳のときに比叡山に上られ、十五歳のとき出家されたのでした。法然上人は、僧侶としての栄達をかなぐり捨てられ、一人の孤独な求道者として、人は、どのようにして悩みや悲しみから離れることができるのか、その道をひたむきに探し求められたのでした。しかし、その願いは、比叡山の伝統の教えによっては満たされることがなかったのです。
そこで、上人は、直接、仏の教えに正しい答えを求められました。厖大ぼうだいな数にのぼるお経と、それらのお経に対する先人たちの注釈書類を虚心に読みあさられたのでした。そのような求道の中で出遇われたのが、源信僧都げんしんそうずによる往生要集おうじょうようしゅう』の言葉でした。源信僧都のお言葉に導かれて、上人は、それまであまり深く関心を向けておられなかった善導大師ぜんどうだいしの教えに、衝撃的な出遇いをなさったのです
衝撃であったのは、「念仏でもよい」という自力聖道門しょうどうもんの伝統的な教えとは異なり、「ただ念仏しかない」という教えだったからです
法然上人は、やがて比叡山から下りられ、京都の吉水において、貧富・貴賎きせんを問わず、真の仏教を求める人びとに「専修せんじゅ念仏」(専ら念仏を修める)の教えを広められたのでした。この法然上人に出遇われ、その教えをまっすぐに受け取られたのが親鸞聖人だったのです
専修念仏の教えが広まるにつれ、朝廷によって念仏は弾圧されることになり、法然上人は四国の土佐(高知県)に、親鸞聖人は越後(新潟県)に流罪となられたのでした。法然上人は、四年あまり後に赦免しゃめんされて京都にもどられましたが、ほどなく、念仏のうちに八十年のご生涯を閉じられたのでした

法然上人について詳しい解説は、東本願寺HP 正信偈の教え「法然上人」をご覧ください